『病牀六尺』は、松山出身の文人・正岡子規が、明治35年5月5日から亡くなる2日前の
9月17日まで、死の病と向き合う苦しみ・不安、日々のたわいもない日常の風景、介護し
てくれる家族のこと、文学、芸術、宗教など日々心の底から湧いてくる気持ちを日々書き綴
った随筆です。日本人に100年以上読み継がれる名作ですが、同時に死と向き合う心情を赤
裸々に包み隠さず表現した闘病記録です。透明な躍動感とユーモアを放つ子規文学の「響き」をお届けします。
<本文>
九
○余が病気保養のために須磨すまに居る時、「この上になほ憂うき事の積れかし限りある身の力ためさん」といふ誰やらの歌を手紙などに書いて独りあきらめて居つたのは善かつたが、今日から見るとそれは誠に病気の入口に過ぎないので、昨年来の苦しみは言語道断殆ほとんど予想の外であつた。それが続いて今年もやうやう五月といふ月に這入はいつて来た時に、五月といふ月は君が病気のため厄月やくづきではないかと或る友人に驚かされたけれど、否大丈夫である去年の五月は苦しめられて今年はひま年であるから、などとむしろ自分では気にかけないで居た。ところが五月に這入つてから頭の工合が相変らず善くないといふ位で毎日諸氏のかはるがはるの介抱かいほうに多少の苦しみは紛まぎらしとつたが、五月七日といふ日に朝からの苦痛で頭が悪いのかどうだか知らぬが、とにかく今までに例のない事と思ふた。八日には少し善くて、その後また天気工合と共に少しは持ち合ふてゐたが十三日といふ日に未曾有みぞうの大苦痛を現じ、心臓の鼓動が始まつて呼吸の苦しさに泣いてもわめいても追つ附かず、どうやらかうやらその日は切抜けて十四日も先づ無事、ただしかも前日の反動で弱りに弱りて眠りに日を暮し、十五日の朝三十四度七分といふ体温は一向に上らず、それによりて起りし苦しさはとても前日の比にあらず、最早自分もあきらめて、その時あたかも牡丹の花生けの傍に置いてあつた石膏せっこうの肖像を取つてその裏に「自みずから題だいす。土一塊牡丹生けたるその下に。年月日」と自ら書きつけ、もしこのままに眠つたらこれが絶筆であるといはぬばかりの振舞、それも片腹痛く、午後は次第々々に苦しさを忘れ、今日はあたかも根岸の祭礼日なりと思ひ出したるを幸に、朝の景色に打つてかへて、豆腐の御馳走ごちそうに祝の盃さかずきを挙げたのは近頃不覚を取つたわけであるが、しかしそれも先づ先づ目出たいとして置いて、さて五月もまだこれから十五日あると思ふと、どう暮してよいやらさツぱりわからぬ。
○五月十五日は上根岸三島神社の祭礼であつてこの日は毎年の例によつて雨が降り出した。しかも豆腐汁木の芽あへの御馳走に一杯の葡萄酒を傾けたのはいつにない愉快であつたので、
この祭いつも卯の花くだしにて
鶯うぐいすも老て根岸の祭かな
修復成る神杉若葉藤の花
引き出だす幣ぬさに牡丹の飾り花車だし
筍たけのこに木の芽をあへて祝ひかな
歯が抜けて筍堅く烏賊いかこはし
不消化な料理を夏の祭かな
氏祭うじまつりこれより根岸蚊かの多き
(五月十八日)
正岡子規「病牀六尺」
初出:「日本」1902(明治35)年5月5日~9月17日(「病牀六尺未定稿」の初出は「子規全集 第十四巻」アルス1926(大正15)年8月)
底本:病牀六尺
出版社:岩波文庫、岩波書店
初版発行日:1927(昭和2)年7月10日、1984(昭和59)年7月16日改版
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