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脊椎カリエスの痛み

 脊椎カリエスで不自由な生活を強いられる中で、とりわけ痛みは子規にとって死ぬ以上に苦しい症状であった。壮絶な子規の苦しみの叫びが第38回(6月20日)に詳述されている。

「病床に寝て、身動きのできる間は、敢て病気を辛しとも思はず、平気で寝ころんで居たが、この頃のやうに、身動きが出来なくなつては、精神の煩悶を起こして、殆ど毎日気違いのやうな苦しみをする。この苦しみを受けまいと思ふて、色々に工夫して、あるいは動かぬ体を無理に動かしてみる。いよいよ煩悶する。頭がムシャムシャとなる。もはやたまらんので、こらへにこらへた袋の緒は切れて、遂に破裂する。もうかうなると駄目である。絶叫。号泣。ますます絶叫する、ますます号泣する。その苦しみその痛み何とも形容することは出来ない。…もし死ぬことが出来ればそれは何よりも望むところである、しかし死ぬことも出来ねば殺してくれるものもない。…誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか」。

実に痛みの酷さが生々しく伝わってくる子規の告白である。
 子規が苦しめられた痛みは、脊椎骨の破壊と脊髄神経が刺激されることによって起こる痛みで、絶え間なく押し寄せてくる慢性の痛みと体動時の激痛が入り混じったものであったと想像される。2畳ほどの狭い生活空間の中で、食事をするにも起きたり寝たりと体を動かすことは必要な事で、食べれば当然用足しも必要となって来る。体を動かすたびに腰や下肢の痛みが激痛として押し寄せたに違いない。眠りという安息の中にも寝がえり一つで激痛の苦しみに苛まれた事が容易に想像できる。
 脊椎カリエスによる想像を絶する痛みは、苦痛からの解放を願って死を望むほどのものであったことが子規の記述から切々と伝わってくる。この記述は明治35年6月20日に記されたものであるが、明治34年10月13日に記された仰臥漫録の中に痛みの極致を体現していた子規の煩悶が吐露されている。すでに8ヶ月前に痛みの極みに達していた子規がどのようにして激痛への対処をしていたのか、日々の生活をどのように過ぎしていたのか、子規が書き記していた日々の生活の様子の中に私たちが死と向き合う時の知恵として何か学ぶべきものがあるように思われ、病床六尺にそのヒントを求めて話を進めてゆく。まずは、明治34年10月13日に仰臥漫録に記された痛みの極致を体現していた子規の煩悶の吐露を紹介したい。“古白日来”の文字と一緒に小刀と千枚通しの錐の挿絵が入った記述である。

「今日も飯はうまくない 昼飯も過ぎて午後2時ごろ天気は少し直りかける 律は風呂に行くとて出てしまうた 母は黙つて枕元に坐つて居られる 余は俄に精神が変になつて来た「さあたまらんたまらん」「どーしやうどーしやう」と苦しがつて少し煩悶を始める……」

とある。子規は門下生の阪本四方太に直ぐ来てくれるように母に「キテクレネギシ」の電信を頼むのである。そして記述は進み、

「……さあ静かになった この家には余一人になつたのである 余は左向きに寝たまま前の硯箱を見ると……二寸ばかりの鈍い小刀と二寸ばかりの千枚通しの錐とはしかも筆の上にあらはれて居る さなくとも時々起らうとする自殺熱はむらむらと起こつて来た……この小刀でものど笛を切断出来ぬこともあるまい 錐で心臓に穴をあけても死ぬるに違ひないが長く苦しんでは困るから穴を三つか四つかあけたら直ぐに死ぬるであろうかと色々に考へて見るが実は恐ろしさが勝つのでそれと決心することも出来ぬ 死は恐ろしくはないのであるが 苦が恐ろしいのだ……今日もこの小刀を見たときにむらむらとして恐ろしくなつたからじつと見てゐるとともかくもこの小刀を手に持つて見ようとまで思ふた よつぽと手で取らうとしたがいやいやここだと思ふてじつとこらえた心の中は取らうと取るまいとの二つが戦つている 考えて居る内にしやくりあげて泣き出した その内は母帰つて来られた……」

古白とは子規の母方のいとこでピストル自殺をして命を落としている。挿絵の「古白日来(こはくいわくきたれ)」とは古白が自分の所へ来いと呼んでいる声であったのだろう。明治34年10月13日、子規の痛みはここに極に達している。

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