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家族の力(1)

子規の時代は入院療養自体がないに等しい時代であったので、当然自宅で最期を迎えることはあたり前の事であったと思われるが、現代の在宅ケアの有り方を考える上で子規の家族力を見ておくことはとても重要な要素である。健康な人は何の疑問もなく無意識の中で自宅で日常の生活を送っているが、ひとたび大きな病気によって自分のことが自分でできなくなった時に、当たり前にできていた事のありがたさを身をもって体験し、己の無力さから無価値な自分の存在の意味を失って生きる意味を失くしてしまうことがある。医学的に日常の活動能力のことをADL(Activities of Daily Living)と表現しているが、日常生活を送るために最低限必要な日常的な動作として、起居動作・移乗・移動・食事・更衣・排泄・入浴・整容などを指標としている。子規の日常を想像すると全てにおいて介助がいる状態であった事は想像に難くない。子規は明治25年根岸に新居を構え母八重、妹律と家族3人の生活を始めている。病状が進むにつれて自立性が失われて行く中で家族の介護は子規の日常を支える不可欠のものであった。特に、実際の介護者は妹律が担っていた事が記録に残されているが、病床日記ともいわれる仰臥漫録に日々の生活が生々しく記されていて、介護の壮絶さを物語る記録でもある。それは煩悶・号泣、死への希求など壮絶な子規の想いが綴られる中(3.脊椎カリエスの痛み参照)で、淡々と過行く日常の風景として記されている。明治35年3月10日の記録を挙げてみる1)。

 

 明治35年3月10日 月曜日 晴

(日記のなき日は病勢のつのりしときなり)

 

午前7時

家人起きいず昨夜俳句を作る 眠られず 今朝は暖炉を焚かず

 

8時半

大便のち腹少し痛む

 

同40分

麻痺剤を服す

 

10時

包帯取換えにかかる 横腹の大筋つりて痛し

この日始めて腹部の穴を見て驚く

穴というは小き穴と思いしに がらんどうなり 心持悪くなりて泣く

 

11時過

牛乳一合たらず呑む 道後煎餅一枚食う

 

12時

午餐 粥一椀 鯛のさしみ四切

食いかけてたちまち心持悪くなりて止む

午後1時頃

牛乳 終始どことなく苦しく、泣く

午後4時過

佐千夫蕨真(伊藤佐千夫、蕨真一郎)二人来る

佐千夫紅梅の盆栽をくれ蕨真鰯の鮓(すし)をくれる

くさり鮓という由

 

5時

大便 蕨真去る

晩飯 小田巻(うどん) さしみの残り

腐り鮓 金山寺味噌(長塚所贈)うまく喰う

7時頃

麻痺剤を服す

夜 

牛乳 煎餅 密柑 飴等

佐千夫歌の雑誌の事を話す 9時頃去る

それより寝に就く 睡眠善き方なり

この頃の薬は水薬二種

(一は胃の方、一は頭のおちつくため)

 

三度の食事・カリエスの傷の包帯交換・痛み止めの服用・来客の様子が淡々と記されているなんの変哲もない在宅療養の日常の記録であるが、三度の食事の支度・傷の手当は母八重と妹律の献身によって維持されているものであり、この献身は毎日当たり前のように続けられているものである。しかし、命と向き合う者にとってちょっとした言葉や食事の対応が悪いと、毎日のことであるが故に“ありがとう”の感謝言葉ではなく怒りの言葉で介護者へぶつけられることがまま看られることである。子規もご多分に漏れず妹律への想いを仰臥漫録へ記したものがある。明治34年9月20日の記録である1)。

 

 律は理窟づめの女なり 同感同情のなき木石(ぼくせき)の如き女なり 義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むることなし 病人の命ずることは何にてもすれども婉曲に諷(ふう)したることなどは少しも分らず 例えば「団子が食いたいな」と病人は連呼すれども彼(律)はそれを聞きながら何とも感ぜぬなり 病人が食いたいいえばもし同情のある者ならば直に買うて来て食わしむべし 律に限ってそんなことはかつてなし 故にもし食いたいと思うときは「団子買うて来い」と直接に命令せざるべからず 直接に命令すれば彼は決してこの命令に違背することなかるべし その理屈っぽいこと言語道断なり 彼の同情なきは誰に対しても同じことなれどもただカナリヤに対してのみは真の同情あるが如し 彼はカナリヤの籠の前にならば一時間にても二時間にてもただ何もせずに眺めて居るなり しかし病人の側には少しにても永く留まるを厭うなり 時々同情ということを説いて聞かすれども同情のないものに同情の分かるはずもなければ何の役にも立たず 不愉快なれどもあきらめるより外に致し方もなきことなり感謝の“か”の字もない散々な評価である。緩和ケア病棟で夜勤をしている看護師から聞いた話である。患者のAさんとBさんがほぼ同時にナースコールを鳴らして来たので、看護師はまずAさんの所へ行ってケアをした後Bさんの所へ行ったところ、Bさんからとてもきつい言葉をかけられた。「ナースコールを鳴らしたのになぜすぐ来てくれなかったの。来てくれないナースコールならあっても意味がない。すぐ来てほしいから呼んだのよ。」看護師はすぐ来れなかった事をひたすら詫びて、Aさんのケアで来れなかったことを言い訳として決して言わなかったのである。ただひたすら詫びて、次はすぐ来るようにするからと話したのである。夜が白む頃Bさんから「昨夜はごめんなさいね。看護師が忙しいのは分かっているの。でもすぐ来てほしいかったの、ごめんなさいね。」の言葉。暗闇で一人過ごす患者の不安と孤独感。Aさんのケアで遅れたことをBさんへ決して言ってはいけないことの意味を看護師は知っていたのである。律のケアは24時間、365日毎日続くものであり、寄り添うことの意味、決してその場から逃げない事の意味を知った上でのやさしさの究極の形のように思える。河東碧梧桐の「子規を語る」の中に付録として「家庭より観たる子規」と題した律との対談が掲載されているが、その中でカリエスの包帯交換の話が記録されている2)。

 

穴は背中と腰の方に、背中のははじめ二つであったのが一つになって、都合まァ大きいのが二ヶ処、どれもフチが爛れて真赤になって、見るからに痛そう、というより無残なほどにギザギザになっていました。そこへちょっとでも触れようものなら、飛び上がる-ことも出来ない-ほどであったらしいので、出来るだけソーッと古いのを剝がすのですが、いつも膿汁でずくずくになっていました。それから棉フランネルのような柔かい切れに、一面油薬をぬって、それをまず穴の上に置き、その上へ脱脂綿を一重、その上へ普通の棉をかなりな厚みに載せて繃帯をかけて、ピンでとめておくのでした。さほど思った程臭いはしませんでしたが、それをするのは朝の御飯のすんだあと、モヒ剤を飲んだ、薬のきいた時分を見計らうのでした。毎朝のことですから、お互いにお勤めのような思いでした。

 

淡々とした語りの中に包帯交換の壮絶な場面が目に浮かんでくる。棉フランネルや繃帯は洗って再利用したものと思われるが、当然のことながら妹律の毎日の洗濯があってこその包帯交換であった。優しさを通り越して兄妹愛がなければ続ける事の出来ない日々の出来事であったと確信している。子規は妹律の存在の大きさを実感しながらも、運命に翻弄される自分と律の生き方を素直に受け入れようとする子規の想いが前記「カリエスの包帯交換の話」の続きの中に記されているが、家族の強い絆を感じる記録である2)。以下にその要約を記すと『律は強情で人には冷淡で、特に男性に対してはshyであり、結婚生活が送れない人間である。そのため律は兄の看病人になってしまった。律がいなければ今頃自分はどうなっていたであろうか、看護婦を雇うお金もないし、雇ったとしても今の律の仕事をこなせる看護師はいない。律は看護師であり、食事の支度、家の整理、その上自分の秘書役も担っている。食事は、肉を自分に食べさせても律は野菜と香の物で済ませるような人間である。律が一日でも居なければ子規家は回らないし、自分は生きて居れない。自分の病気がどのようになろうと律が元気でいることをただ願うだけである。律が病気になるくらいなら自分は死んだ方がましである。律が2度目の結婚後も戻ってきたのは、自分の看病人となるべき運命にあったのだろうか、災いも幸せも入り乱れてやってくるので、人の智慧では予想することはできないものである。』と締めくくっている。

子規は律の幸せを願いつつ、律なくして子規家も自分も存在しえない、律に対して言葉を超えた家族の絆が言わしめた想いのように感じるのである。律も子規の才能を身近で感じ、自分の役割を自分の能力と性格で最善を尽くそうとしていた事が感じ取れる記録でもある。

 

文献:1)仰臥漫録、正岡子規、岩波文庫、2009年

   2)子規を語る 河東碧梧桐著 岩波文庫 2017年

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